1950-04-05 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第19号
またその当時カラカンダにおいて東京外国語学校とか、ハルピン学院におつた優秀な通訳の人はすべて特別な収容所におりました。そこで私のような独学に近い者でも、その当時一番優秀な通訳となつておつたわけであります。ソ連側としては、収容所共通の通訳として捕虜を採用するわけに行かない。しかしながら捕虜の間の講師としてという名目で採用しようということになつておりました。
またその当時カラカンダにおいて東京外国語学校とか、ハルピン学院におつた優秀な通訳の人はすべて特別な収容所におりました。そこで私のような独学に近い者でも、その当時一番優秀な通訳となつておつたわけであります。ソ連側としては、収容所共通の通訳として捕虜を採用するわけに行かない。しかしながら捕虜の間の講師としてという名目で採用しようということになつておりました。
当時私は建国大学に教鞭をとります前に、ハルピン学院におりました。ハルピン学院の教授をいたしておりました。若干ロシア語を心得ておりましたので、自然ロシア語の通訳として終戰当時から入ソ後まで、暫くの期間しておりました。一九四五年十月十九日、これは中央アジア、ウズベック共和国の首府タシケント東方約百キロの地点にあるところの小さな炭鉱町でありますアングレンに入りました。
○北條秀一君 時間を惜しみまして極めて簡單にお答え願いたいのですが、先程俘虜の給料が四百五十六ルーブルだというお話でありましたが、これは俘虜の取扱規定に基いて軍曹以下、軍曹以上、将校、こういう段階が分けられたという話でありますが、そういう事実があつたかということ、それからもう一つは午前中の証言にありましたハルピン学院の教護、卒業生が可なり抑留されているという話でありましたのでお驚きしたいのですが、一九四五年
それから二番目の御質問の北滿経済調査局或いはハルピン学院の関係でありますが、ハルピン学院は大体向うではスパイ学校と言つておりますが、ハルピン学院を出た者は君もそうでありますが、一応全部帰つております。殊に卒業いたしましてからロシア関係の仕事に従事しておる者は、大体九分五厘まで刑に服しております。
ライチハは、自分がライチハを出発するときに残つた残留人員の三百五十名は特務機関及び通訳、ハルピン学院出の通訳、東京外話の通訳であります。通訳及び憲兵、そういう連中が残つております。それは近くハバロフスクに行くと思います。それだけであります。
絶対に帰さない人間というのはどういう者かというと、これは新聞社の政治部長の話では憲兵、特別志願將校、ハルピン学院の通訳、これは皆日本のスパイで軍國主義者の最も代表的な者だ、これは帰さん。こういうようなことが新聞社の方に命令がありました。私達はそのことは聞いております。その收容所に全部その新聞を配りまして、そうして最も親ソ分子といわれる人がその新聞を読んで解説をする。いろいろ読書会等も設けました。